ヤスー昔話
                  作 者   爆走魂

   これは掲示板にて爆走魂が勝手に書き続けている『ヤスー昔話』をまとめて掲載したものです。


はじめて読む方へ「1.HP運営」に行って、後はを押して次に行ってください。

  15 ま〜た!自分の事ォ?ちょーむかつく〜!編

   14   最近は爆走魂のことばっかり編

   13   爆走魂の目から鱗が…

   12 モータースポーツ突入編その3
  11 モータースポーツ突入編その2
 10 モータースポーツ突入編その1
 9  番外S田H之氏編 part2
 8  番外S田H之氏編
 7  モータースポーツとの出会い編(序章)
 6  高校編その1
 5  高校編その2
 4  出会い編
 3  ヤスー日記改め
 2  私は負けぬ!
 1  HP運営


ま〜た!自分の事ォ?ちょーむかつく〜!編 投稿者 爆走魂 2002年04月14日 14時31分

 

『安かろう、悪かろう。』という言葉がある。
簡単に言うと、安モンは駄目! 転じて『安物買いの銭失い』となる。
今のご時世は安くて良い物もいっぱいある。
また、そうでなくてはモノが売れない時代だ。
100円ショップも大流行り!
実は私も愛用しているのだが、その中には“やっぱり安モンはだめだな…。”という物もある。
私が購入した6点式ロールバーが実はそうであった…。
定員乗車用で価格は4万円也、『○×△製作所』ってトコの商品でした。
古〜いレースファンならばGC(グラチャン)で、
松本恵二選手のスポンサーとして覚えがあるだろうか?
青い車体に黄色の文字で書かれた『*****STEEL』と。
通常皆さんが知っているロールバー(6点式の場合ね)だと、
センターバーにフロント及びリヤ側のバーを取り付けるためのブラケットが溶接されている
又、フロントバーにはルーフバーを取り付けるためのブラケットがやはり溶接されている。
そしてフロント、センター、リヤ、各バーには車両に固定されるための
加工がなされているのが普通だ。そして、それぞれのブラケットとバーの穴を合わせボルトを通してナットで固定、それで済むことだ。
ドリルを使うのは、車両フロアに固定する箇所だけでいい…。
パーツ構成は、センターバー1本 フロントバー左右各1本 リヤバーも同じ
それとフロントのルーフバーの6点、そしてボルト&ナットと当て板ぐらいだ。
ところが、こいつは違ったのだ!
まず、センター用に“両端を切り落としてU字型に曲げただけの鉄パイプ!”
フロント用には同様に“くの字”が2本!リヤ用も同じだ、左右各1本!
フロントルーフ用に両端をちょいと曲げた鉄パイプ1本。
そして、それぞれのパイプを挟み込んで取り付ける別体のU字型クランプ6個と
フロア取り付け用のこれまた別体のブラケットと当て板が各2個ずつ、
全て、現物合わせで穴をあけての取り付けである…。
位置合わせのための車内での仮組みすら困難を極めるのだ!
取り付け位置いかんによっては、それぞれのバーの取付寸法が合わなくなる…。
合わせてあけた筈のボルト穴の位置もずれる可能性大!
なんて素敵な…。あぁ…。
そして、予感的中…。
不幸中の幸いは、ヤスーの職場には必要な工作機械が揃っていたことだ。
切る、削る、穴をあけるを繰り返し、どうにか取り付け終了。
だがここに、このロールバーの最大の欠点が露呈するのだ!
前述にあるように、このロールバーの組み付けは全て別体のクランプでなされている。
バー自体も形状が異なるだけで同じパイプの組み合わせだ。
従って、同一サイズのパイプを挟み込むカタチで組み付ける以上
ただ挟まっているだけの部分(U字の谷部分)は完全には固定されないのである!
事実、叩くと簡単にずれるのが判る…。ヾ(@゚▽゚@)ノあははは・・・。
苦難はこれに留まらない。
更なる試練は、“バケットシート”であった。
シートは『クワトロスポーツRS』を購入していた。
TE71からAE86へとモデルチェンジし、
いわゆる『LEVIN』『TORUENO』と名乗る車種がFRとして継続され、
他のカローラ.スプリンターはFFへと変わった。
それ故、71→86でエンジンとボディはまるっきり変わったのだが、
駆動系や足回りさらにフロアパネルは多少の仕様変更はあるものの
基本的には71との共通部品なのである。
従って今回購入したパーツも71時代から継続されているものがある。
その中にひとつにバケットシートのベースフレーム(スライド機能付き)があった。
そして、室内高は71に比べ86は小さくなっている。(ボディ高が低い)
これが何を意味するのか…。
相対的にシートポジションが高くなるのだ。それも半端ではない。
先のシートを組み合わせると身長170センチ足らずの私で、
ノーヘル状態でヘッドクリアランスが2~3センチしか無い!
ヘルメットを被るとルーフにつかえてしまう!ロールバーにもぶち当たる!
何てこったい…。しかも更に苦難は続く…。今度は“補助灯”だ。
2バルブ3フィラメントと高機能(4灯式ヘッドライトと同じ)を持つ
『CIBIEバイオスカースーパーコンペティション』は馬鹿デカかった。
固定ヘッドライトのレビンなのに、リトラクタブルヘッドライトの
トレノ並みにバンパーを加工する(切る)必要があった。
奥行きもあったからグリルも大きく深く削らなければいけないことに…。
たしかにフル照射した時は昼間並みに明るかったけど。
先のロールバーとシートの件だが、
クランプ取付部にゴムを巻いて一応固定はできた。
シートはS田氏に“何とかして”とお願いしたら
ベースは車両取付部を残しただけの鉄板へと形を変え、
ヘッドクリアランスはとりあえず確保出来たがシートはリジットマウント化となる。
後に86用ローポジションシートが発売された時、私は再び葱を背負うことになるのだった。


【最近は爆走魂のことばっかり編】 投稿者 爆走魂yasu- 2002年03月12日 00時32分

 

さてさてハチロク購入の契約も済み
私は、競技車とするべくその相談にヤスー共々
S田氏の勤める店へと出向いたのであった。
ラリコンは、あのTE71の遺品?である【RP90S】、
ロールバーは何をかをいわんや6点式と決まっていた。
今にして思うと、S田氏にすれば『鴨が葱背負って』という気持ちだったであろう
なんせ、こちらはトーシロ、向こうは全日本選手である。
『ショックはこれが一番!ハチロクでラリーしとる奴はみんな、これ使っとる!』とか
『フォグはこれや!昼間並みに明るいぞ!』とか、
『タイヤとホイールはこれしかない!』
S田氏はBSのサポートを受けていたから、そりゃそーだろー。
云われるまま…であった。
でも、そんなS田氏が思うところがあったのか、
『補強は今のところ、リヤとフロントはアッパーマウントだけにしとけや。
初心者のうちはフロントからヤッテしまうことが多いし、フロントをガチガチに補強してフロントから突っ込んだらクルマ終わるし。』と、一言。

なるほど!そうだったのか!!

で、総額ン十万円也…
補強以外は自分で取り付けするから多少は安くついてはいるのだが…
で、
納車直後、その場で内装とメルシートを剥がしてS田氏の店へ。
2日程で作業は終了、頼んだパーツもあらかた来ていた。

しかし、何故だろう…
みんなが使っているはずのショックの箱が
ボロボロで印刷も薄くなってしまっているのは…
まるで、倉庫の片隅にずーっと置いてあったかのように…
フォグランプのカプラ―がハーネスキットのカプラーと合わないのは何故だろう…
そういえば、あそこに展示してあったランプは何処へ…

私は葱どころか、鍋、箸、取り皿まで持って来ていたかもしれない…

古びた箱のショックもカプラーの合わない補助灯も
さらに、S田氏のお手製強化アッパーリンクの長さが5ミリほど違うのも
すべて、『ジャマ無ぇって!』の一言で片付けられた…
まぁ、カプラーはどちらかに合わせて付け替えれば済む事だし、
ショックも使えないわけではない…。適応車種“TA47”ってなってっけど…。
(この年代のセリカは既出になってるように♯A63って型式なんだけどね。)
リンクも補強作業している間にヤスーがロアーリンクも含めて
ウレタンブッシュに交換してくれていたのを無駄にはできないから

良しとするか!

で、まだ届いていなかったロールバーとシート以外をクルマに詰め込み、
総額ン十万のローンを組んで店を後にした。

そして、それから数日間 仕事が終わったあとコソコソとパーツを組んで行った。
アンダーガードとミッションガードをつなげると、
そのカタチは、まるで『でっけぇ“お好みベラ”みてぇだ。』と、
一人ほくそえんだ。
長さの違うアッパーリンクはさすがに取り付けには苦労したぞ。

残っていたロールバーとシートが入ったと連絡を受け、
補助灯の取り付けを含めてヤスーに手伝ってもらうことにした。
だが、そこで思いもよらなかった事態が待っていた!

                               つづく



 

【爆走魂の目から鱗が…】編  投稿者 爆走魂 2002年02月03日 09時35分

さて、時間は過ぎ去り…
世には、噂のあったグループBホモロゲモデルのTA64セリカターボが
その条件である200台という台数限定で市販された。
WRCではサファリ優勝(連覇したんだったか?)など好成績を収めたが
国内では、たいした成績は収めることも無く
むしろ、モデル末期を迎えたTE71カローラから次期モデルまでの
“つなぎ”として数チームが参戦したに過ぎなかった。(よ〜な気がする)
で、我々は?というと、ヤスーのクルマ謎の失踪から2ヶ月足らず…
競技に参戦する訳も無く、この地方のシーズンオフが近づきつつあるなか
この年の全日本選手権の最終戦(だったと思う)
【R-○ RALLEY&ラリー】を観に行ったのだった。
むろん、かのS田氏もプライベート参戦していた。
スタートは石川県地場産業センターであったと思うのだが定かではない…
初めて目近に見るラリー車群。
スポンサーカラーを纏い、装備を施した車体は、
普段、仕事上や街中で見慣れているはずのクルマ達なのに
全く違うモノであるかのように私の目には映った。
でも、見慣れている S田氏のカローラと、ラリー仲間?のT氏のカリーナは
この車群にあってもフツーのクルマに見えた。
スタートして能登方面のコースへと向かって行く競技車(者?)を見届ける間も無く
ヤスーと私と他数名(誰かは覚えが無い)は、1ステSSゴール&サービス、
そして、最終SSのゴール地点のスキー場駐車場へと出発する。

そこでは、各チームのサービス隊がそれぞれの場所で準備をはじめていた。
(今はこのような処では大掛かりなサービスは出来ないはずだが当時はおかまいなし!)           
それらを見て廻り、ゴールしてくるのを待っていた。
秋も深まった頃でありしかも山中とくれば、夜ともなると相当に冷え込む。
ただ、待つ身のつらさ故か、
『あぁ…、こんな寒い所にいつまで居るんだろう…ぐすん…』と、
口には出さなかったが痛切に思っていた…
そうこうしている内に周りが慌ただしくなってきた、
発電機の音が大きくなり照明のスイッチが次々と入る。
しばらく時間を置いた後、遠くから唸るエンジン音と共に
ボディを路面にヒットさせている音が聴こえて来る。
それは段々と大きくなり程無くして眩しい光が現われフルスロットルで駆け抜けてゆく、
闇夜に響く笛の音とスキール音、泥にまみれた競技車が次々とゴールに飛び込んでくる。


曖昧な記憶の中で、
何故か?チェックライン通過直後に急停止し、何事かを叫んでいたT氏と
サービスに入ってくるなり『左、左!ёи?д$ж★£∽♪!』とわめいていた
S田氏が妙に印象に残っている。(まぁ、この二人しか知らんのだが…)
で、そのサービスだが先に言ったように当時は『お構いなし!』であった。
修羅場なので近づけなかったが傍目にも
WRC並みとまではいかないが、全車4輪アップでリジットラックがあてられ
ショックの交換などは当たり前!必要によっては損傷した足回りの交換、
場合によってはクラッチ交換やミッション交換、それ以上の事までもやったらしい。

余談だが、我がMRTでは
サービス隊=宴会部隊、サービス時間帯=宴会タイムとなっている。
ここしばらくは出動する機会が無くて寂しい限りだが…

さてさて、サービスも終了し、全車(除くリタイア)2ステへとスタート。
“やれやれ、これでやっと帰れる…真夜中だよ…ったく”と安堵のため息のなか、
この男ヤスーが、信じられない言葉を口にする!(ガ○ンコ風に読もう!)

『最終SSも観て行こう!』

なんですと?それって何時だよ?朝方じゃんかよ!

このあと、この男は更に信じられない言葉を口にする!!

『ここじゃなくて、コースで観よう!』

なに〜!コースって山のドまん中でか?
今、何時だと思ってるんだ!こんな真夜中にここよりも奥へ行く?
同行した奴も そうしよう と言い出す始末
自分の車で来ている以上置いていくワケにも行かず…
渋々と車を持ってくるかとしようとした時、

この男はまたしても信じられない言葉を口にする!!

『おまえ、何考えとるが?コースに車入れんぞ!歩いて行かんなんよ!』

え?…
もしも、当時『北斗の拳』が連載され1年程が経過した頃であったなら
私は迷わず、“カサンドラのウイグル獄長”の様に
『あ〜?聴こえんな〜!』と嘯いたであったろう…。

その時の私の脳みそは…
(1号車ゴール予定時間が午前5時過ぎだろう。今、2時をまわったトコじゃね〜か!
つ〜こたぁ、何かい?こんな真夜中の山ん中を3時間近くも歩こうってのかい?
人間の歩く速度が時速4キロとして12キロ。まぁ、夜中の山ん中の砂利道ってことで
3kmチョイぐれぇと見積もって10q強ってトコロか…
冗談じゃ無ェぜ。ったくよぉ!おまけにこの寒さときた日にゃぁ あ〜ぁ
まてよぉ、この季節だしなぁ冬眠を控えて餌探しの熊と“ばったり!”
おいおい、シャレになんねぇぞ!てなこた無ぇだろうなぁ
だいたいなぁ、暗いところは苦手なんだよなぁ〜。
お化け屋敷でも駄目なのに、な〜んで秋の真夜中に山ん中で
肝試しみたいなまねをするんだか…
何も出ねぇだろうなぁ…。あ〜ヤダなぁ…。
何か出たらどうしよ、倒れるな きっと。)
と、わけのわからん妄想を巡らしていた。
 で、 実際に歩く夜中の山道は不気味以外の何者でもない…
月明かりだけが頼りの真暗闇。
やがて、目が慣れ周りが見えてくる。
もしかして、
一人増えてたらどうしようかと…
どれくらいの時間を歩いたのだろうか、
ヤスーは長いクランク状らしき道路の脇を見て
『あそこで観るか!』と、とんでもない場所を指差したのだった。

土手の上…。しかも草ボウボウ…。

お、おい。あそこって?あの草むら?
それに、まだ真っ暗…
どうしろと云うのですか?

そして事も無げに、この男はこう言い放つ…
『寝て待っとりゃいい!』
秋の夜中の山の中、土手の上の草むらで野宿です。
寒いです…。恐いです…。危ないです…。
などと、云いつつも
青島刑事も、そうであったように
眠いときゃ、何であろうと寝れるものだ!

誰が最初に目が覚めたのかは記憶に無いが、
ずぇっとわいぃ!ヤスーではないことだけは確かである!
しっかりと夜は明け、まわりは明るくなっていた。
既に何台かの競技車は走り去っているのは
次に来た車両のゼッケンでも明確だ。
エンジンの咆哮と路面とヒットする音は当たり前だが
大きくそして、近くで聞こえてくる!
クランク状というよりは大きなS字カーブと云った方が
適格な道路の奥から、今まで見たことも無い姿勢でクルマが飛び出してくる!
そして、見たことも無い姿勢で次のコーナーに飛び込んで行く!
『これが本当のドリフト…』
漫画や写真にあるような静止状態では決して想像も理解も出来ない。
正に『目から鱗が落ちた』とはこの事!
この瞬間、ラリーは面白い!と思ったのである。
砂塵を巻き上げ、砂利を撒き散らしながら次々と飛び出し、そして飛び込んで行く。

おぉーっ、S田氏だ!そういやT氏はどうした?見なかったぞ?

追い上げ車両が通過した後、我々は駐車場へと歩き出した。
夜中に歩いたときは遠く長く感じた道だったが、なんのこたぁない
わずか2キロぐらいしか無かったのであった。
結果は全然覚えてはいないがT氏は転落リタイヤだったのだけは覚えている。
その翌年TE71の後継車となるAE86がデビュー。
この年の【R-○ RALLEY&ラリー】には観客では無くオフィシャルとして参加。
慣れぬ笛吹きとチェックカード切りで苦労する。T氏はまた落ちていた…

そして、そのまた翌年の早々に…
私はヤスーに向かってこう云った。

俺、ハチロク買うから
おまえ、ナビやってくれ。

つーわけで、ヤスーがナビをやることになったのは
私の一言が始まりだったのだ!(たぶん…)

                  つづく

追伸 
最近はヤスー昔話になってねぇじゃないか!とお思いの向きもございましょうが
わが道を行く!!

 

 

 

モータースポーツ突入編そのB 投稿者 爆走魂 2002年01月18日 04時42分

かくして、Dr:ヤスー.Nv:爆走魂・戦闘機:TE71セダン
と、布陣は揃ったのである。
早速この男は競技車とするべく、S氏が勤める店へと入庫させた。
車両規定が今日(こんにち)と異なっていた当時、
ヤスーは(クルーの重量を考慮してか?)6点式ではなく“リヤ4点”のロールバーを選択する。
そして、ラリコンには今にしても高価な “RP90S” (20万!)を選んだのであった。
(当初、共同購入にしよう!と言っていたのだが全額ヤスー持ちに…あはは)
さぁ、体制は整った!初陣はいつだ!どのラリーだ!
いやがうえにも、士気は盛り上がる!
だが、
全ては、幻に終わってしまう…

一人(だったのか?)練習に出かけたこの男に悲劇が待ち受けていた。
後日、車庫に収まっていたTE71は
ものの見事にかなり『ウェッジ』が効いたボディと化してしまっていた。
4Pロールバーは、アバンギャルドな“スラントルーフ”をもたらしたのだった…。

それでも
一度は修理をしたのだ。
が!またしても!!
今度は“クワガタ”になってしまったのだ。
それ以降、その姿を見ることは無かった…。
どうなったのかは知らない…。
ここに“初代”破壊神ヤスー誕生である。そして今も伝統は継承されている…
(ちなみに二代目はY川、三代目は“ほっち”なのである。そして四代目がヤスーの会社に…)
この時、この男のドライバーとしての才能はさておき、ナビとしての才能は
まだ誰も知る由も無かった。
 
                      つづく

 

モータースポーツ突入編そのA 投稿者 爆走魂 2002年01月12日 03時33分

はぁ?らりぃ?…って、砂利道と雪道を走っているアレか???
何を好き好んで、クルマぶっ壊しながら走らなきゃならねぇんだろ…
と、思ったもんでした。

その@にある様に、ラリーに対してさほど興味は無かったのである。
それにもまして、すきだったF1レーサーが世を去った事もあり、
興味の対象はオートバイレースへと変わっていたのだ。
てなわけで、ただ返事をしていた。(と、思う。)
そんな私に対して、この男は執拗に誘うのであった!
(願うならば、この男には○○団体に入らないで頂きたい!)
で、ある時あろうことか私のRA63(どノーマル)で
どこの山かは忘れたが、
およそクルマが走る道じゃねーだろ!(と思った)
という道を走らされたのである。
それは、走るというには程遠い速度ではあったのだが、
下回りが路面に当たる度に、泣きそうになった…
そして…
『二度と来るか!コノ野郎!!』
と、絶叫したのだ!(心の中でだが…)
しかし、この男の誘いは更に続く。
(重ねて言うが、○○団体には入らぬように!)
『なら、ナビやらん?それなら自分のクルマじゃないし。』と悪魔の囁き
“自分のクルマじゃないなら…いいかな…”
そしてこの頃には、この男に対して追い風も吹いていた…
トヨタがWRCをCMに起用しだしたり、
競技専用とされる車両(TA64)も販売されると噂が出てきたりした。

この一言が決めてとなり、MRTに加入することになる。

以外かもしれないがこの男と私の『付き合い』は、ここからが“始まり”なのである。
これ以前だったか以降だったか覚えがないが
この男はTE71のセダンを購入する。
それは、あのS田氏と同じクルマであった。
等と言いつつ、
当時TE71が主流だったのだ。
まさか、そのクルマに悲劇が訪れる事になろうとは
その時は思いもしなかっただろう…     つづく

 



ヤスー昔話モータースポーツ突入編その1
投稿者 爆走魂 2002年01月02日 00時55分

さて、この男がS田氏から影響を受けたもう一方
昔話の本題とも言える『ラリー』だ。
以前にも書いたが、昔からモータースポーツに興味があったかどうかは知らない。
まぁ、ディーラーに就職するくらいだから“クルマ”そのものには興味はあった
と思われる。
だから、産業車両部(現ト○タL&○の前身)に配属された時は
多少なりとも、ガッカリしたんじゃね〜かな…と、勝手に解釈する。
まぁ、そこで運命的な出会い(男相手だが)があったんだから
それも、またよし!いや、結果オーライか。
(以前から思ってたんだけど、この掲示板 タグ が使えんのはおもろないなぁ…)
とは言え、すぐさまクルマを買ったりといった事は無く
かなり長い間、原付バイクと親父の車を足に使っていた。
そして、中学・高校時代と同じく
私の実家の隣のカメラ屋さん(当時)に入りびたっていたのだ。
それとは逆に私は、
中学時代からモータースポーツが好き(でも見てるだけ〜)だった。
いわゆる、『スーパーカーブーム』から、
『F-1』を筆頭とするフォミュラーカーに興味を持った。
ラリーの事も知ってはいたが、
『普通のクルマが砂利道や凍った道を走っている』ぐらいにしか
思ってなかったのである。
だってねぇ、“ベンツ”や“ミニクーパー”がモンテカルロラリーで優勝しても
日産の“フェアレディZ”や“バイオレット(知らねぇだろ)”や
ダイハツの“シャレード”なんかが
サファリラリーに参戦しても、凄いともカッコいいとも思えなかったぞ。
ランチアストラトスぐらいか?カッコいいと思ったのは。
これもスーパーカーとして見ていたけどな。
クルマも贅沢にも当時出たばっかりのRA63を買ったりしたのだ。
で、1年ほど過ぎた頃に
唐突に言われたのである…『ラリーせんけ?』と。

 


ヤス−昔話:番外S田H之氏編 part2 投稿者 爆走魂 2001年12月17日 00時29分

そして、その疫病神振りは当然、私にも及んだ。
それは今を去る事、数年前の事…
S田氏は金沢市外れの山をひとつ越えた所に住んでいる。
なにを考えてるんだか、私の実家(飲食店を営んでいる)に出前を頼み、
遠過ぎると断わられ(当たり前だ!)、その文句を言ったり。
勤務先に、『車を買ってやる!』と言ってくれたまではよかったが
長期在庫車であることに大幅値引きを要求(強要?)し、
外観に対してノークレームならばという条件で
仕入れ値を下回る価格で商談成立。
それなのに、あろうことか!メーカーのお客様相談センターに苦情を打ち上げ
まんまと外観のクレーム修理を承諾させやがった!
(断わっておくが今は無理だから、よいこの皆さんは真似しない様に!)

次回からは、ヤス−のモータースポーツとの出会い本編だ!
プロバイダー変更後に記載予定。しばし、待たれよ




ヤス−昔話:番外S田H之氏編 投稿者 爆走魂 2001年12月17日 00時28分

では、そのS田H之氏について少しばかり語ろう。

80年代初頭に中部地区で名を挙げ、
よりよいMS環境を求め(たかどうか知らんが)会社を辞め、
カーショップ(○ルバンの前身)へ転職。
83年だったか、
『チームい○ゞ』 (その後、小型乗用車部門撤退により消滅) に抜擢される。
その年、有望な若手選手ということで
『モーターファ○』という自動車雑誌(廃刊になったのか今は無い)に
レーサーの萩原光(後に菅生にて事故死)と共にコラムを連載。
その後、『マジョ○カ』(ここも無くなった)というチームに移籍し、
全日本戦での初そして唯一の勝利を(ア○ベのナビチョンボにより)挙げ、
シリーズ3位の好成績をおさめる。
(う〜ん、こう書くと疫病神みたいな人ですな。)
免許証を没収され赤キップで参戦したり、
180日免停で嘆願書を集め、90日に短縮してもらうなどの逸話もありそれ故か、
(取り消しを180日免停だったかな?)
4WDが主流になる以前に現役を退(かされ?)き
現在、頭皮が目立つような年になり、○ルバンのお偉いさんとなっている(と、思う…)。
富山弁しかわからないK岡選手のかつてのライバルであった。
(以上、間違うとるかもしれんが嘘ではないぞ!)

 

 

モータースポーツとの出会い編(序章) 投稿者 爆走魂 2001年12月17日 00時18分

以前に書いたように、この男も今のキヨたろうと同じように
配属された部署でスケベなMS関係者、その名も“S田H之氏”と出会うのだった。
さて、ここで疑問がひとつ…
ヤスー本人が、『昔はおねェちゃんが好きではなかった…』と曰っておった。
では、いつから大好きになったのか?
S田氏の影響で、“朱に交われば赤くなる”というやつか?
        否!
賢明な諸氏は御分かりであろう…
バッタの写真を見れば自ずと答えは分かろうというもの。
『藍より青く』。
資質は充分過ぎるほどあったのだ。
S田氏はきっかけに過ぎぬ…     続きぞ。

 

 

ヤスー昔話:高校編その1 投稿者 爆走魂 2001年12月05日 19時17分

偶然にも、この男と私は同じ学校の同じ科に入学する。
(そして、更なる偶然が私を襲う!のだが省略)
同じ科と云っても複数クラスあったので、同じクラスになったのは一度だけ。
がっ!
そこで、我々(?)はこの男のとんでもない才能を知ることになる!

(この一行は、ナレーターの田中伸夫&翌ノ読もう!)
過去の掲示板に書いたように、この男『数字』にツヨイ!!

その噂は以前から聞いてはいた…
(ここから渡辺篤史&翌ノだ。)
皆さんは『天才数学者 アインシュタイン』のことはご存知だろう。
子供の頃1+1の計算が出来なかった≠ニされるその人である。
事実は彼の解釈と理解が一般の常識を超えたところにあった。
理屈ではなく直感的に解答を導き出し、そこへ至る過程が常識では計り知れない
のである。
この男の天賦の才は『物理に関する考察力』にある。
いわゆる『公式』といわれる数式を必要としないのだ。
問題から独自の数式をあみ出し解答を出す。
その答えは、どうゆうわけだか正解なのである。
『公式』を常識とするしかない我々には、それを理解する術はない。
そしてこの才能はその後の競技において
ナビゲーター≠ニいう役割に十分生かされることとなる。(たぶん…)

  ヤスー昔話:高校編その2 投稿者 爆走魂 2001年12月05日 19時16分

(今回は森本レオ≠セ。)
だが
『天は二物を与えず』とはよく言ったもので
その反面、文字・言葉には弱い!しかも、かなり弱い!!
国語・英語はその最たるもので
読めない、書けない、意味がわからない、の無い無い尽くし!!!
この男の書いた字を見ると
永い歴史の中での文字の成り立ち≠ニいうものを垣間見た様な気になったのは
きっと、わたしだけではあるまい。
四字熟語の笑い話によくある例えだが『○肉○食』を『焼肉定食』と
最初に答えたのは、もしかしたらこの男なのかもしれない。
加えて、かなり昔にPD誌か何かで読んだ記事だが
富山出身のK岡選手が海外に参戦していた時のこと。
『彼が理解出来るのは日本語。しかも富山弁だけ。
ナビがRight≠ニ指示してヘッドライト≠点灯させなくなったのは
何度かコースアウトしそうになってからのことだ。』
との記載があった。もしこの男だったら…、
もっと、おもしろいことをやってくれたに違いない!
と、まあ、物理では常にトップだったが、
これらの記述や言葉を主とする科目ではまるで駄目で
常に最下位争いを繰りひろげていたのだ。
ただし、この天賦の才も同じ数字がらみとはいえ
『数学的考察力』は、その範疇からは少しばかり外れてしまったようで
数学の成績もずば抜けてよかった!とは聞いた事が無い。
『お金』が絡むとまた違う天賦の才が発揮されるみたいではあるが…。
卒業後は系列こそ別だがこの男と私は共に
T社系ディーラーへと就職した。
そして、この男は配属された部署で、その後の人生に大きな影響受けることとなる
(そして私はそのトバッチリを喰らうことになる)
S田H之氏と出会うのであった!
(最後の二行も田中伸夫&翌ノ読もう!)
          
                             つづく

 

 

ヤスー昔話:出会い編 投稿者 爆走魂 2001年11月23日 00時59分

私がこの男を初めて知りあったのが今から四半世紀前の
中学生のときである。四半世紀ってのは何年だ?≠ニか、
ってとこは、今何歳だ?≠ネどと考えてはいけない、
そんなことは中国四千年の歴史からすれば些細なことである。
それは同じクラスになったわけではなく、共通の友人によってということだ。
それ以前の事は知る由も無いが、この男
ノストラダムスが、かの予言詩『諸世紀』を書いたとされる年から
407年後のG/W(いつからそう呼んでるかは知らんが。)の真っ只中に世に誕生。
名前の由来はおそらく誕生日によるものだろう。
命名した方(この男のご両親とは思うが)は、ナイスセンス!である。
と同時に『名は体を表す』という諺は、この男には無縁だ。
モータースポーツへの興味は、その頃からあったかどうかは判らんが
当時、この男の趣味はカメラ(写真撮影)であった。
今のこの男が、おねェちゃんが大好きなのはよもや周知の事実。
撮影会という大儀名分の基、裸のおねェちゃん目当て≠ニいう事にも
じゅうぶん頷ける。
                            つづく

 

 

ヤスー昔話(ヤスー日記改め) 投稿者 爆走魂 2001年11月19日 22時06分

さぁて、近いうち掲載を始めるとするか。

あなたの知りたくもなかった、この男ヤスーの過去がさらされる!

                           皆様、乞うご期待!

 

 

私は負けぬ! 投稿者 爆走魂 2001年11月18日 15時48分

そのような報復手段は先刻承知。だが安心せい!
人を呪わば穴二つ、死なばもろともじゃあ!この男(今回からこう呼ばせていただく)
に巻き込まれ、MS界へ足を突っ込んだ者共(主に俺)の悲哀を綴らせてもらおう。

ここで以前の文中、間違いがありましたのでお知らせいたします
かく言う、私も日本語の使い方が間違っておりました。
"更新頻度は多くした良いと"→"更新頻度は多くした方が良いと"の間違いでした。
訂正してお詫びさせていただきます。

 

 

HP運営 投稿者 爆走魂 2001年11月18日 02時13分

今回から"HN未定"を改め『爆走魂』としてカキコする事としよう。
貴様、日記系の巨大サイトから名前をパクりやがったな…と、思うでない。
更に!『おまえ!クルマ(競技車)持って無ぇじゃんかよっ!』などとツッコミは決して入れてはならぬ。
さてさて、管理人のヤスー(な〜んか違和感あるなぁ)は『如何に(このページを)賑やかしくしようか?』と苦慮しとるようだな。
ふっふっふ…わかるぞ、その苦労。
今を去る事2年前
PC(あんときゃまさか、○ATE○AYが日本撤退するたぁ思わんかったなぁ…あ〜ぁ)購入後,
いきなりHP作成を始めアップさせたまではいいものの、
運営の難しさからめんどくさくなって2ヶ月足らずで閉鎖させた経験があるからな。
今にして思えば"PCど素人が大それた事をやったもんだ"と感心するやら呆れるやら…
まぁ、常連が増えるまで辛抱だな。それに更新頻度は多くした良いと思います。
ちなみに、(話が突然変わるが)ヤスーは数字には強いが文字には弱い。
機械が変換してくれなかったら、きっと『ひらがな』だらけで読みにくかったに違いない。
日本語の使い方も間違っているかもしれないが、みんな 大目に見ようじゃないか。
そうだ、掲示板使って『ヤスー日記』でも連載したろかな。
キヨたろう日記を読んで思ったのだが、
たしか、あいつもモータースポーツとの出会いは
"スケベなMS関係者"では無かったか?        

ヤスーへ

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